九死に一生(1)  M262−1  


前回、戦地で、九死に一生を得た、ワコールの先代社長の塚本幸一氏のことを書きましたが、「致知」(ちち)という雑誌に、戦争で、悲惨な体験をした人の物語が載っていました。


父親も戦争を体験しており、この方達と同じ世代なので、人ごとではなく、非常に感動しながら読ませて頂きました。


いかに、現代の私達は恵まれているか?この事実を読んだら、なんでも可能になります。


いくら感謝しても足りないほど恵まれているのに、天に申し訳ないと自責の念にかられます。


この方の心情を思うと何度読んでも、こみ上げるものがあります。


この時代を乗り切り、私達の世代まで日本を支えてくれた大勢の先輩達がいたから、現代の私達の存在があります。


ですから、感謝の念でいっぱいになり、身のしき締まる思いに
なります。


                 

              • 致知」(ちち)という雑誌より---------


「足なし禅師」と呼ばれた禅僧がいた。


小沢道雄(どうゆう)師。大正9年生まれ。幼年期、曹洞宗の専門道場で修行。20歳で召集を受け満州へ。昭和20年、25歳で敗戦。


シベリアに抑留され強制労働。


肩に受けた銃創が悪化し、役立たずは不要とばかり無蓋(むがい)の貨車で牡丹江(ぼたんこう)の旧日本陸軍病院に後送される。


氷点下4、50度の酷寒に夏服のままで、支給された食料は
黒パン1個、飲み水もままならず、3日間を費やした工程で
死者が続出した。


小沢師は死こそ免れたが、 両足が凍傷 に冒された。


膝から切断しなければ助からない。


その手術の担当軍医は内科医で、外科手術はそれが初めて、麻酔薬もない。


メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、
小沢師はこの軍医に切られるなら本望だと思い定めた。


想像を絶する激痛。


歯がギリギリ噛み合い、全身がギシッと軋(きし)んで硬直した。


すさまじい傷みは、1か月余り続いた。


8月に突然の帰国命令。


歩けない者は担架に担がれ、牡丹江(ぼたんこう)からハルピン、奉天(ほうてん)を経て胡慮(ころ)島まで、千5百キロを徒歩で歩くことになった。


だが、出発して3日目の朝、目を覚ますと周りには誰もいなかった。


満州の荒野に置き去り にされたのだった。


あらん限りの大声で叫んだ。


折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、僥倖(ぎょうこう)というほかはなかった。


崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国した小沢師は、福岡で再手術を受け、故郷、相模原の病院に送られた。


母と弟が面会に来た。


「こんな体になって帰ってきました。いっそのこと死のうと思い
ましたが、帰ってきました。」


と言うと、母は膝までの包帯に包まれた脚を撫で、小さく言った。


「よう帰ってきたなあ」


母と弟が帰ったあと、小沢師は毛布をかぶり、声を殺して泣いた。


懊悩(おうのう)の日は続いた。


気持ちはどうしても死に傾く。


その果てに湧き上がってきた思いがあった。