ガン 実体験レポート より
あなたご自身か
それともあなたにとって大切な方が
ガンでお悩みでしょうか?
もしそうなら、このレポートは
必ずお役に立つと思います。
あなたご自身やあなたの大切な方が、
目の前の医師の言葉だけを鵜呑みにして
ひとつしかない大事な命を失ってしまう前に、
このレポートを読んでいただきたいのです。
このレポートには、文字通り命を賭けて実践してきた
ガン克服への道が詳しく書かれています。
さらに、100人以上のがん患者の方々と情報交換し、
その方々の闘病生活の生の声から学んだ真実と
私がこの3年間で必死になって読んだ、
ガン患者の必読の書とも言うべき
50冊以上の本のエッセンスを紹介しています。
このレポートを読んでいただければ、ガンの治療に関して
今までとは全く違う目が開け、失意は希望へと変わるはずです。
今お読みいただいているのは、もちろん無料レポートです。
「このレポート」というのは116ページに及ぶ有料レポートですが、
その最初の10数ページをほとんどそのまま掲載しました。
どうぞお読みいただいた上でご判断ください。
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はじめに。
簡単に自己紹介をさせていただきます。
私はNと申します。 出身は北海道です。
京都大学に進み、卒業後は某大手自動車メーカーに勤め、転職して外資系のコンピューター会社に勤めました。
やがてサラリーマン生活に疑問を感じ、学習塾の講師を経て自分の学習塾を開き、これぞ自分に与えられた天職と思い懸命に取り組んできました。
しかしその後、不規則な生活の上、仕事や私的なトラブルもあり、検査で発見されたときは既に大きな末期の大腸ガンになっていました。
後ほどお話しますが、あることがトラウマとなり、通常の医療を拒否して試行錯誤した免疫療法で健康を回復して現在に至っています。
これは、自分自身をモルモット替わりにして末期ガンに挑んだ一人の熟年男性の文字通り死に物狂いの闘病記です。
そして、ここに真のガン克服への道が記されていると自負しています。
このレポートが、ガンでお悩みの方々の、少しでもお役に立つことができるならば、それは私にとって望外の喜びです。
体験記を書くように勧めてくれたSさんに、改めて感謝の意を表します。
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1.気味の悪い違和感
「何かおかしいなぁ、この感じは何なのだろう?」
私が、左下腹部にチリチリとした、痛みとまでは言えないけれど、何か気味の悪い違和感を覚えるようになったのは、平成15年の夏の終わり頃です。
その頃私は既に50歳を過ぎ、札幌の郊外で小さな学習塾を経営していました。
経営と言っても、アルバイトの講師を2〜3人使う個人塾で、自分の体力や気力の衰えを感じながら、いわゆる少子化と大手塾の宣伝攻勢に悩まされ、将来に不安を感じながら忙しい日々を送っていました。
下腹部の違和感はやがて右の方(盲腸付近)にも現れ、その頃から月に一、二度便秘に悩まされるようになってきました。
私は下痢はよくする体質ですが、今まで便秘はほとんど経験がないと言ってもいいくらいだったのです。
だから、やはり年のせいで消化の具合が少し狂ってきたのかなぁと思ったのですが、
便意はちゃんとあるのにどこか奥のほうでひっかかって出てこないというのが、普通とはちょっと違う感じだったのです。
そのうちに、便秘があるとその後にきまってひどい下痢がくるようになり、さらに便秘の時には左の下腹部に鈍い痛みを感じるようになってきました。
そしてある日、便に血が混じっているのが見えたのです。
さすがにこれはただ事ではないと思い始め、「ひょっとしたら・・・」と、頭の中に「ガン」の文字が浮かんできました。
でも私はそれだけはどうしても認めたくなくて、必死になってその思いを打ち消し、なるべく考えないようにしていました。
それは、10歳違いの兄がその5年程前に、肺がんでガリガリにやつれて幽鬼のような姿で死んでいった、最後の姿が目に焼きついていたからです。
しかし、そんな私の気持ちをあざ笑うかのように、月一回程度だった便秘と下痢のサイクルはだんだん短くなってきて、週に一度程度になりそのうち二、三日おきになってきました。
便秘も下痢もだんだんひどくなってきて、血も混じると言うより便に練り込まれているような感じで、そのまま流さずに見ていると、便器の底の方にジワーッと赤黒い血が広がってきます。
それは言いようもない不気味な色をしていて、じっと見ていると何かこれからの自分を暗示しているように広がっていきます。
「これは痔だ」と思い込みたくても、痔の出血は以前に経験があります。
今回は痔の出血のようなきれいな鮮血ではなく、もっと黒ずんでいて、体の内部からの出血だということは素人目にも容易に推測できたのです。
そして便秘は日に日にひどくなってきました。
便意を催してトイレに入って気張っても、なかなか出てこないのです。
なんだか背筋が寒くなって、脂汗が出てきます。
トイレで悪戦苦闘した末にあきらめて出てくると、また強い便意を催してきます。
何度も出たり入ったりして、疲れ果てた頃にやっと細くてねじ切れたような便が出ます。
そしてその便はもう普通の色ではなく、血が固まったようなチョコレート状の便で、便なのか血なのか分からない状態です。
ふつうは、こうなったらというよりこうなるまでに、とにかく病院に駆け込むだろうと思います。
早く病院に行こうと家内からも毎日のようにやかましく言われていたのですから。
日を追うごとに、さらに便秘の痛みは激しさを増し、下腹部を押さえながらエビのように身体を丸め、床に転がって七転八倒します。
家内が見かねて、私の身体を揺さぶりながら、「もう救急車を呼ぶよ!」と言うのを、意識が薄れそうになりながらも、「ちょっと待て!」と止めていたのです。
その時の様子を後になって人に話すと、「Nさんは我慢強いですね!」と言われるのですが、決してそうではなく、病院に行ってガンを宣告されたら、それはそのまま死への片道切符だと思い込んでいたからです。
当時の私にはガンの知識はほとんどありませんでしたし、父方にも母方にも知っている限りガンで亡くなった人間はおらず、長寿の家系でした。
だから、兄がガンになるまでは、自分はガンとは無縁の人間だと勝手に思い込んでいたのです。
それだけに、「ガン宣告」→「手術」→「再発」→「抗がん剤」→「猛烈な苦しみ」→「モルヒネ」→「死」という、兄の歩んだ道だけが唯一の知識であり真実だったのです。
しかし、あまりにもひどい便秘と激痛に苦しめられ、のっぴきならない状態に追い込まれた。
私は、ついに「もうこれ以上自分をごまかすことはできない」と思うようになりました。
「とりあえず検査だけはしてみよう」やっと、そう決心して、病院ではなく、ある公的な検査専門機関で検査することにしました。
そこは北海道で最も大腸がんの検査数が多く、腕が良くて検査のときの事故が無いのと、病院のように「ガン宣告から即手術」というベルトコンベアに乗らなくて済むと思ったのです。
それくらい私はガンを恐れており、「ガン宣告=死刑宣告」のように思って、その日を延ばし続けていたのです。
しかしそれと同時に、内心では「間違いなくガンだ」と既に確信していたようにも思います。
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2.ガン検査
ついに検査の日がやってきました。
当然のことながら事前の潜血検査は陽性でした。
潜血などというものではなく、もうかなり出血していたのですから。
でも、出血が目に見えていても、一応潜血検査をするのだそうです。
平成15年の10月31日、朝から大量の下剤を飲み始めました。
何度も何度もトイレに行き、だんだん便の色が薄くなってきます。
腸内をきれいにして検査に臨みました。
検査時間は30〜40分前後と聞かされていたのですが、10分ほどで終わりました。
まったくあっけない感じで、全然苦痛も感じませんでした。
しかし、実はこの時間の短さに、大きな意味があったのです。
肛門から内視鏡を入れてはみたものの、S状結腸にトグロを巻くように、ぐるりとリング状の大きなガンが張り付いていました。
そこで腸が狭くなって、それ以上内視鏡を入れることができなかったのです。
何も知らない私は、案外簡単にすんだなぁとしか思いませんでした。
私は、周囲が知っているのに、自分だけがガンだと知らないというような状況は絶対にいやなので、事前に、「もしガンだったら、隠さずにそう言ってください」と頼んでおきました。
そのせいもあり、医師は慎重に言葉を選びながらも、既にかなり大きなガンが出来ていると告知してくれました。
医師はまだ30代だと思うのですが、告知の仕方が非常に巧みで、いきなりガンだとは言わないのです。
はじめは、「んー、Nさん、ここに腫瘍が出来ていますね。
んー、あまり良性のものではなさそうですね」と言うのです。
「これはちょっと悪いかな?ガンかも知れません。んー、これはやっぱりガンですね」
そして、私の心の準備が出来るように時間をおいてから、おもむろにこう告げたのです。
「Nさん、残念ながら、あなたのガンはかなり進行していて、すぐに手術しないと危ない状況です。これだとすぐに腸が塞がってしまいます。もし、そうなってしまったら、もうどうにもなりません。今すぐに、病院に行って手術してください。」
そして、続けてこう言いました。
「手術を待っている人が多いようなら、優先順位を上げてもらうように頼んであげます。」
さすがにこの言葉を聞いた時に、事態は相当切迫していることが分かり、足がカクカク震え出すのを抑えられませんでした。
医師は病院への紹介状を書いてくれましたが、その紹介状は私には「死刑宣告書」が入っているのではと思うほど重たいものでした。
検査機関からの帰り道、「やっぱり・・・」という思いに沈み込みながらも、どうすべきか考え続けていました。
どうやって帰ってきたのか、よく事故を起こさずに無事に帰ってきたと思います。
気がついたら家にいました。
家内が、どうだった?と聞いてきたのですが、不思議なことになんて答えたのか全く記憶がないのです。
よく空白の一日などと言いますが、本当にそんな一日だったように思います。
さあ、この紹介状を持って病院に行けば、即刻手術、入院、抗がん剤治療というシナリオが待ち受けています。
そして、その先にあるものは、・・・兄と同じ壮絶な苦闘の末の「死」。
ふたたび兄の苦悶の表情が浮かんできます。あの死に方だけはごめんだ!
その夜はさすがに眠れるはずもなく、悶々としているうちに、ふと紹介状の内容が知りたくなってきました。
いったい何て書いてあるのだろう?「この人は、もう見込みは無いけれど一応手術はしてあげてください」などと書いてあるのではないだろうか?
それとも自分の思い過ごしで、案外大したことはないのかも知れないぞ。
いやいや、それは甘すぎる、それならわざわざ優先順位を上げるなんて言うはずがないじゃないか!
いや、もうきっと手遅れなんだ、そういえば、医者は私の顔を直視しなかったじゃないか。
妄想が妄想を呼んで、目はますます冴えてきます。
そのうちに、ふと良からぬ考えが浮かんできました。
「中身をそっと見てみよう、それから改めて考えても遅くはない!」
そこでいつか映画かテレビで見たのを思い出し、熱湯の蒸気を使ってこっそり封を開けてみることにしました。
ポットの再沸騰を利用して湯気を出し、開封した痕跡が残らないように、慎重に慎重にコトを進めました。
ところが何としたことか!
封筒の表に書いてあった文字が蒸気でにじんでしまったのです。
「しまった!」と思いましたが、もう後の祭りです。
これでは開封したことがばれてしまいます。
こうなったら最早どうにもなりませんので、あとはハサミで大胆にジョキジョキ切って開けてしまいました。
中には「診察情報提供書」と言う手紙と、内視鏡で撮影した4面が一枚になった写真が入っていました。
なにかぶりぶりした感じの、見るからに気味の悪い厭なものです。
腸の壁にリング状に張り付いていて、もう狭い穴しか空いていないので、今にも腸が塞がってしまいそうです。
手紙にはもちろん症状に関するコメントもありましたが、殆ど横文字の専門用語で詳細までは理解できませんでした。
しかし、緊急の加療が必要と書かれていましたし、インターネットで調べてみても、末期であることだけは、十分理解することができました。
しかも内視鏡が入って行かず見ることはできなかったので、手紙には何も書いてはありませんが、大腸のもっと上方部にも強い違和感があって、私はむしろそちらの方が大きいのではないかと思っていたのです。
だからもし病院へ行って手術で切り取るとしたら、大腸をほとんど切り取って、小腸と直腸を直接つなぐことになります。
大腸が無くなっても命に別状はないなどと言うけれど、大腸は水分を吸収して便を調節するところなのだから、取ってしまったら大変なことになる。
絶対に切りたくない!何か他に方法はないのだろうか!
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3. 閉塾、廃業
さあ、どうしよう?
とにかく、まず塾をどうするか?
もう11月です。受験生にとっては最も重要な時期で、これからの2、3ヶ月の過ごし方で、今まで積み上げてきたものが実を結ぶかどうか決まるのです。
私ががんばったとしても、もし入試直前に倒れてしまったら、がんばりが仇になって、塾生たちに取り返しのつかないダメージを与えてしまう。
絶対に迷惑は掛けられない!
生徒たちは、今ならまだ冬期講習から他の塾に移ることができる。
決断するなら今しかない。塾を閉めよう!
そう決めたら、不覚にも涙が出てきました。
塾生の子どもたちの顔が目に浮かんできます。
一人一人のことを考えていたら、だんだん気持ちが高ぶってきて、嗚咽を抑えることができなくなってしまいました。
ふだんは、ああしんどいなあと思っていたのに、いざ塾を閉めるとなると、自分はこの仕事が好きだったのだと、今更のように思い知らされました。
しかし事情はどうあれ、この時期に塾を閉めると言うのは、何か適当な理由を告げるという訳にはいきません。
全て事実を有りのまま伝えて許してもらうしかないと考え、もう末期のガンで塾を続けることは出来ないとご家庭宛に手紙を書きました。
反響は私の想像以上に大きく、ご父兄の方が本当に心配してくださって、色々な資料や高価な健康食品やら持ってきてくれました。
北大の先生を紹介してくれるという方、断食道場を紹介してくださる方、中には熱心な宗教のお誘いもありました。
こんな時期に閉めるのですから、中には文句を言ってくる方もいるかと思いましたが、そんな方は一人もいませんでした。
それから2週間くらいで、へとへとになりながら全てのことを済ませ、いつ死んでもいいように身の回りのことも整理しました。
すべての整理がついた時、やっと物事を冷静に考えられるようになってきました。
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4. 現代医療不信
普通なら、たぶん選択肢などは、もう無いだろうと思います。
内視鏡で検査して、これだけはっきりと不気味なガンがトグロを巻いて張り付いていて、しかも専門医が「緊急手術」を促しているのです。
とにかく病院へ駆け込んで手術するのが当たり前で、この2週間の遅れさえも、既に命取りになっているかも知れないのです。
しかし、私の脳裏に浮かんでくるのは、あの幽鬼のようにやせ細って死んで行った兄の顔です。
なお且つ、この数ヶ月の間に親しい知人が同じようにガンで死にました。
二人とも、ごく標準的な医療を受け、手術は成功と言われたのに再発し、抗がん剤治療を受けげっそりと痩せ細って死んでいったのです。
なぜ私がこの期に及んで、病院で普通の治療を受けずに済む方法はないかと考えたか、兄のガン死の状況をもう少しくわしく話さなければ、とても人には理解してもらえないだろうと思います。
兄は肺がんで亡くなったのですが、亡くなる10年以上前から独り身でしたので、死に際には私と姉がついていました。
再発した後抗がん剤を投与し、最後はモルヒネで痛みを止めて死んでいきました。
日に日にやせ衰え、抗がん剤の副作用で髪の毛は抜け、目だけが異様にぎらつくような顔になっていました。
それでも、医者は以前告知した患者が自殺したことがあるそうで、それ以来告知はしないという方針でしたから、兄は自分がガンであることに、うすうす気がついていたかも知れませんが、まだ本当に死ぬとは考えていなかったようです。
医師からモルヒネを使うと告げられたときに、兄の痛みは頂点に達していましたから、それが死への片道切符だと知っていても、これで苦しむ顔を見なくて済むと、私はほっとした気持ちになったのを、今でもはっきり覚えています。
それから一月も経たないうちに病院から連絡が入り、姉と二人で病院にかけつけました。
そのときには既に意識はなく、最後の時を待つ部屋に移されていました。
奇しくも兄の逝った日は、私の誕生日であり、一緒にいた姉の結婚記念日でもありました。
姉と二人で、「お兄ちゃんは独りだから、命日を忘れないようにと、これはきっとあの世のお父さんが不憫に思って仕組んだことだね」と話したことを思い出します。
だって、日付が変わってすぐに亡くなったのですから。
バタバタとあわただしく葬儀を整え、棺に入った兄を見たら、生前はあまり父とは似ていなかったはずなのに、あまりにもそっくりな顔をしていたのには、親族の誰もが驚きました。
ただ、82歳で逝った父の死に顔は、本当に寝息を立てて眠っているかのように穏やかだったのに、兄の顔はどこか痛みをこらえているような苦悶の表情が浮かんでいました。
60代の死はやはり無念だったのでしょう。
火葬場で骨になったとき、父の骨はすべて真っ白だったのに、兄の骨は胸の辺りが不気味な緑色に変色していて、抗がん剤は焼いても兄を苦しめているように見えました。
もう全く見込みがないのなら、何のために髪が抜け爪がはがれるほど苦しむような毒を、弱った体に入れなければならないのか理解に苦しみます。
さらに兄に関しては、医療不信にならざるを得ないような出来事があったのです。
それは、兄が実際に肺がんで亡くなる5年ほど前のことなのですが、胸が苦しいということで、前述の病院とは別の病院に入院したのです。
その時も私が病状を聞きに行ったのですが、その時医師にいきなりこう言われたのです。
「残念ながら、お兄さんは肺がんの末期で、もう手の打ちようがありません。手術をしても無駄なので、苦しませるより、このまま逝かせてあげたほうがいいでしょう。会わせる人がいたら今のうちに呼んで下さい。」
そして、念のためもう一回検査するので、来週その結果が出るので来てください、と言われました。
その時は、まさかそんな状態になっているとは夢にも思っていませんでしたから、本当に驚きました。
でも兄は随分元気そうで、今度来るときは何か甘いものを持って来てくれ、なんて言うし、「死ぬ人間って、こんなに元気なものかなあ?」と思いながら次の週に出かけて行きました。
病院に行ったら、なにか医師の様子がおかしいのです。
何ともバツの悪そうな顔で「いやー、どうも不思議な話なのですが、お兄さんガンじゃなかったのですよ。今度の検査では何ともないのです。」と言うではありませんか。
「先生、誰か他の人の写真と間違えたのじゃないのですか?」と聞いても、「それは絶対にありません」ときっぱりと否定します。
でも、次に医者の口から出た言葉には、本当に絶句してしまいました。
「明日、退院してもいいですよ」って言ったのです。・・・信じられますか?
前の週には、もう絶対に助からない、と確かにそう言ったのですよ。
もう、驚きとか怒りとかいうのを通り越して、笑うしかないという気持ちでした。
でもこの経験が兄にとっては命取りになったのです。
すっかり自信をつけた兄は、俺は不死身だと言い始め、タバコもやめるどころか、きつい銘柄を一日3箱も吸い続けたのです。
それから5年後に、前に書いたように本当に肺がんで逝ったのです。
このような、兄のガン死の状況が、私を通常のがん治療ではなくほかの道を選ばせた原因になったのです。
さらにもう一つ決定的な原因があるのですが、これは後でお話しします。
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5. 医者は病気を治す人か?
それから私の文字通り命がけの猛勉強が始まります。
札幌で一番大きい本屋に行き、ガンに関する本を片っ端から買い込んできました。
読んでいくうちに、ガンを治すには、決して手術、放射線、抗がん剤という、現代医学治療のお決まりコースだけでなく、人体に備わっている免疫機能を強化することにより、ガン細胞を破壊する道があることが分かってきました。
さらに、抗がん剤は強力な毒であり、新たにガンを造る増ガン剤であって、「百害あって一利なし」という重要な事実も分かってきたのです。
さらに重要なことは、日本にはまだガンを治す医療体制が出来ておらず、医師はガンの治し方を知っているというより、自分に出来る医療行為をしているに過ぎない、ということも分かってきました。
つまり、手術でガンを切り取ることは上手に出来るし、放射線を使ってガン細胞を焼くこともできる、抗がん剤を投与することもできます。
しかし、その部位を取り除いてしまえばそれで全て終わり、という考え方で、根本的な治療法が確立しているわけではありません。
だから、みな手術は成功と言いながらも簡単に再発し、抗がん剤で命を縮めて、年に35万人以上の人が死んでいき、更にその数は年々急増しているのです。
医師にガンの真の原因と治し方が本当に分かっているなら、そんなおかしな事はないはずだ、私はガンについて勉強が進むにつれ、そう確信するようになってきました。
その構造は、まさに私の次男が、皮膚科の医師が無定見に出すステロイド軟膏によって、アトピー性皮膚炎を、二度と後戻りできないステロイド皮膚炎とも言うべきものに悪化させられたのと、全く同様に思えました。
これは一般の人々には、なにか偏狭で特殊なものの見方にしか映らないのではないかということは、私も十分承知しています。
単に私の家庭だけの、いわば特殊な経験だけに基づいているだけなのに、あたかも普遍的というか一般的な話にしようとしている、と思われるかも知れません。
でも日本中には、身内にアトピー性皮膚炎で苦しんでいる人が何百万人もいるでしょうから、その方々には全くその通りだと共感していただけると思います。
次男は、いま25歳です。
次男がアトピー性皮膚炎を発症したのは、1歳半の時でした。
足になにかポツポツと湿疹が出来たので、皮膚科に連れて行ったのです。
そのときに貰った薬がステロイド(副腎皮質ホルモン)でした。
何の知識もない私たちは、塗れば塗るほど良くなると信じて、几帳面に塗りました。
ステロイドは塗ったら二三日中に綺麗になります。
本当に魔法の薬かと思うくらいすぐ効果が現れます。でも、ちょっと塗らないとまたすぐに出てくるのです。
耳たぶの下のほうが切れたり、身体のあちこちがカサカサしてきて痒がるので、塗り方が少ないと思ってまたていねいに塗りました。
とくにどこかへ旅行などするときには、旅先で悪化しないようにその一週間ほど前からかなりしっかりと塗りました。
皮膚科では、「これは顔、これは身体に塗ってください」と言ってステロイドをくれるだけです。
身体を見たのも最初だけで、あとは見ることさえありません。
でも、医者がくれる薬だし、とにかくきちんと塗りさえすれば、いずれは良くなるものと信じて疑わなかったのです。
幼稚園の頃、息子が「皮膚科のお医者さんは僕でもできるね。ハイ、これは顔、ハイ、これは身体って言えばいいんだもの」と言うのを聞いて、子どもながらに、医者に不信感を持ち出したのが分かりました。
だって、良くなるどころかだんだん悪くなって、痒みもひどくなってくるのですから。
さすがにこれではいけないと思って他の皮膚科にも行きましたが、どこも全く同じような対応です。5、6軒は行ったと思います。
それが小学校4年頃まで続きました。
近くの皮膚科が「あちこち行かず、うちで治しましょう」といってくれたので、2年ほど通っていたのですが、「なかなか良くならないのですが」と言ったら、「アトピーは体質ですから一生
治りませんよ」と言われたのです。
その瞬間、わたしは頭から血がすーっと下りていくのが分かりました。
よく殴りかからずに我慢したと思います。
家に帰ってからもくやしくて、その夜はぐでんぐでんに酔いました。
・・・・・でも、それで私は悟ったのです。
皮膚科の医師は、アトピーの治し方を知って治療をしているわけではない。
単に「医療と称する経済的行為をしている生活者」に過ぎないのだと。・・・
それからは医者に頼らずに、アトピーと書いてある本は片っ端から読み漁りました。
漢方薬、温泉療法、身体の歪みを治す療法など、ありとあらゆるものに挑戦しました。
その中の一つ、「川井筋系帯(きんけいたい)療法」という、身体をゆすることで筋肉を緩め身体の歪みを直す方法は、息子と一緒に行った息子の友達には劇的な効果があり、一月足らずで完治してしまいました。
その療法によると、「アトピー性皮膚炎の子は、必ず骨盤の右側が上がり、且つ右肩が下がっている」と言うのです。
真っ直ぐに立たせて後ろ側から見ると、アルファベットのCの字のようになっていて、脊柱の右側がせまくなり、そこから副腎に出ている神経が圧迫されるので副腎がうまく機能せずアトピー性皮膚炎になると言います。
そして、身体を真っ直ぐになるように調整してやると治ると言うのです。
これはまず間違いなく本当だろうと思います。
なぜかというと、川井筋系帯療法とは全く関係のない温泉療法で直ったと言う人の写真を見ると、すべて右肩が下がっていたのが、治った人はみな脊柱が真っ直ぐになっているのです。
これは、ものすごい大発見で、温泉療法は水の浮力で脊柱が伸びて真っ直ぐになったから治ったので、温泉の成分とか身体を温めるとかいうのは二次的なことだったのです。
ただ、私の息子は皮膚科でくれたステロイドを10年間も塗り続けたので、副腎が完全にやられてしまっていたので回復しませんでした。
「川井筋系帯療法」は、何人もの塾生に紹介しましたが、ステロイドをそれまでに、あまり塗っていなかった子は、すべていとも簡単に治ってしまいました。
それはまさに「いとも簡単に」としか言いようがない感じで、10年以上苦しんでいた塾生たちがほとんど数週間で治ったのです。
私は「川井筋系帯療法」とは何も関係がありませんし、息子はこれでも治らなかったのですが、まず間違いなく本当の治療法だと思います。
このレポートをお読みの方で、アトピー性皮膚炎で苦しんでいる人がおられたら、「川井筋系帯療法」を検索してみてください。
ただし、私の息子のように長期間ステロイドを塗りつづけた人は、残念ながら治らないかもしれませんが、それほど塗っておらず、且つ身体が曲がっているようなら一度試してみる価値は十分あると思います。
意外なところにアトピー性皮膚炎の真の原因があったのですが、現代医学は真の原因を究明することなく、安易に対処療法をとるので、治るものも治らなくなってしまうのです。
そして、ステロイド剤を塗るのをやめた時のリバウンドはすさまじいものがあります。
皮膚は毎日様相を変え、身体中から白い粉が落ちたかと思うと、足の膝の裏側の皮膚が溶けて、それが癒着して足が伸びなくなります。
どういうわけか、くるぶしから下は綺麗な皮膚なのですが、足が凍りのように冷たく、まるで死人の足のようです。
顔などは眉毛がすっかり無くなり、耳からは黄色い液がじゅくじゅくと沁み出て異様な臭いがします。
掻いてはいけないとわかっていても、どうしても掻くので手の爪がすり減って、まるでマニキュアを塗ったようにピカピカしています。
ちょっと説明しがたい惨状で、しかも猛烈に痒くて、身体の中の骨が痒いとまで言い出し、毎日床についても1時間も2時間も掻いてやらないと寝付かれないのです。
家内は、この子といっしょに死のうとさえ思い詰めたそうで、そのくらい壮絶な闘いを、よく息子は耐えたと思います。
あの時の息子の闘いに比べれば、私のガンの苦しみなんて全くどうってことはないと思います。
ガンはいずれ死ねば治るけれど、アトピーはまさに24時間続く生き地獄なのですから。
今は年に一度、八戸の「U皮膚科」(全国的に有名なので分かる人には分かるでしょう、)までフェリーで行き、毎月薬を送ってもらい、完治はしていませんが、だいぶ良くなって普通に社会
生活を送っています。
ステロイドは免疫抑制剤ですから、臓器移植のときなど拒否反応を抑えるのには必要不可欠なものですし、他にも医学的に多大の貢献をしてきたことは知っています。
しかし、アトピー性皮膚炎の治療にステロイド剤を使うのは、病気の根本に迫ることなく、目の前にあるものしか見ない西洋医学の欠陥を象徴する事例だと思います。
最近ではステロイドの害がかなり一般的に知られるようになりましたが、今でも苦しんでいる方が、何百万人もいると思います。
そのうちのほとんどは、真の原因を追求せずに、安易にステロイドを出し続けた皮膚科の医者によって作られた、ステロイド皮膚炎というべきものだと思っています。
苦しんでいるご家庭は、例外なくそう思っているはずです。
しかもステロイド剤は薬価が高く、医者は非常に儲かるそうです。
そういう経験があって、ケガとかウイルス性のものとかは医者が本当に必要だけれど、いわゆる慢性病的なものは、安易に医者にかかって対処療法をするべきではないという信念のようなものが、私の中に出来てきました。
だからガンも、一般の西洋医学の安易な対処療法ではない治し方がないのかと真剣に考えたのです。
・・・・・・ しかし、いずれにせよ私にはもう残された時間がありません。
限られた時間の中で、出来る限りのことを調べました。
あらゆることを検討する中で、死に直面して研ぎ澄まされた私の直感は、免疫力を強化する、
或る代替療法こそが、命を預けるに足るものだと教えていました。
しかも、他の療法に比べて格段にコストが安く済むので、閉塾廃業した私にとっては経済的な面からも非常にありがたかったのです。
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その後、私はこの代替療法で、奇跡的な回復への道を歩き始めます。
始めてから40日ほどで、便秘、腹痛、下血などの症状がピタリと治まり、好転を確信しました。
検査の時の写真の状態から2ヶ月も経てば、普通ならガンがさらに大きくなり、腸が塞がってしまっても当然だと思うのですが、逆に「もう山は越えた!」という実感さえ生まれてきたのです。
どのくらい良くなったか知りたくて、3ヶ月経って、同じ検査機関に再検査を申し込んだのです。
その時の医師の言葉が、始めにご覧いただいた
という言葉だったのです。
その後も、その療法を中心として他のことも取り入れ、完全に健康を取り戻し、身体中の細胞が若返った感じで、体力も気力も充実し、初めて会う人は私を実年齢より10歳以上若く見てくれます。
あの時、私が通常の医療をそのまま受け入れていたら、おそらく今頃は、再発転移を繰り返し、抗がん剤でガタガタになって、希望のない療養生活を送っていたでしょう。
いろいろな方に私自身の体験を知ってもらいたいと思っていたところへ、友人のSさんが体験談を書くように勧めてくれました。
今までやってきたことをすべて詳しく書きましたし、延べ100人以上のガンの方々と情報交換し、さらに、ガンや健康に関して読んできた50冊以上の本の中から、「これだけは!」と思ったものを詳しく紹介させていただきました。
一人でも多くの方にお読みいただき、決して目の前の医師に自分の命を丸投げするのではなく、「自分をガンにしたのも自分、ガンを治すのも自分」ということを知っていただき、健康を回復していただきたいと祈るような気持ちで書きました。
本文のレポートの中には、私のフルネームも住所や電話番号、アドレスもすべて書いてありますので、お読みになってお分かりにならないことは、なんなりとご質問ください。