喜びが喜びを産む道理  M923

「喜びが喜びを産む道理」




極大数と極小の数のイメージの最終段階に、(極小の数の最後は
丹田の一点に集中させるのですが)涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
があります。


これは、悟りを開いて、何の苦しみも、迷いもなくなった
極楽浄土のことでもあります。


以前に紹介した、白隠さんの、内観の四則にも、我がこの気海丹田、腰脚足心、すべてに是れ我が唯心の浄土(じょうど)浄土(じょうど)何の荘厳かある。と、2つとも、丹田の奥には、『極楽浄土』という同じ概念になります。


次の2つの概念があります。

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数の拡大とともに、自分も宇宙空間に溶け込むように、巨大に
なるイメージをします。

  
無量大数の大きさになると、全宇宙よりも、はるかに巨大に
なります。さらに、次元を超えるために、極大の世界を意識するのです。

 
そして、次に、急速に縮小して、加速度をつけて縮小して実物大
なります。
 
 
さらに、どんどん小さくなって、丹田の一点に集中させます。
微細な数がさらに縮小してゆき、自分もその極小の世界に入っている
イメージをします。

 
→六徳 (りっと く)→空虚( くうきょ) →清浄 (せいじょう)と至り、(空虚のところが(虚空)になっている説もあります。)
  
 
さらに、加速をつけて、別の次元に突き抜けるのです。

 
ものすごいパワーが湧き出て、無限のパワーに至り、有り得ない
奇跡が起きますので、実践して下さい。


清浄は、10のマイナス21乗ですから、1を10分の1→10分の1→10分の1→10分の1→10分の1→10分の1・・・・・と、21回も10分の1づつ繰り返し小さくして行った数の単位です。

 
六徳 (りっと く)が19回、空虚( くうきょ)が20回、清浄 (せいじょう)が、21回、それぞれ、10分の1づつ小さくして行った、限りなくゼロに近い微細な数になります。

 
19回〜20回ですから、なぜか、19年、19章、20年、20章、21年、21章と、シンクロしているようなかんじになってきました。

 
六徳 (りっと く)が19回で、19年と19章にシンクロしていますから、今年は、 アカシック・テストで、徳を積むことの暗示なのかも知れません。


さらにその先の、次元を超えた、阿頼耶(あらや)→ 阿摩羅(あまら)→涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)が、それぞれ、22回、23回、24回です。

 
微細な数の単位の終わりは、24回の涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)が最後のようなのです。


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<内観の四則> 


1、我がこの気海丹田、腰脚足心、すべてに是れ我が本来の面目(めんぼく)
  
面目(めんぼく)何の鼻孔(びこう)かある。


2、我がこの気海丹田、腰脚足心、すべてに是れ我が本分の家郷(かきょう)
  
家郷(かきょう)何の消息かある。


3、我がこの気海丹田、腰脚足心、すべてに是れ我が唯心の浄土(じょうど)
   
浄土(じょうど)何の荘厳かある。


4、我がこの気海丹田、腰脚足心、すべてに是れ我が己身の弥陀(みだ)
   
弥陀(みだ)何の法をか説く。

 

この四則の意味は、「わが気海丹田、腰脚足心にこそに真の自己が
宿っているのだ。同様に、この下半身こそ、なつかしい人間の故郷であり、また阿弥陀なのである。それどころか、この気海丹田、腰脚足心そのものが心の浄土なのである」


白隠さんは本来の自分は、下丹田に宿っている!と、言い切ってい
るのです。気海丹田にこそ 真の自己=「大いなる自己」=自分の中に
いる「もう一人の自分」が宿っている!と、断言しているのです。

 
そして、下丹田に、氣のエネルギーを充実させることが、あらゆる
難病を治し、あらゆる願望を達成し、あらゆる奇跡を実現させる最良の方法なのです。と、後世に貴重なメッセージを残しているのです。

 
白隠さんは、この丹田呼吸の実践で500年に一人と言われる
ほどの大天才の高僧となり、誰も解けない禅の難問を嘘のように
すらすらと解ける様になったのです。

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この2つの概念は、全く違う角度からの視点ですが、同じ概念になります。


もう一つ、確か岩戸開きの概念も、同じだったので、一二三神事を
調べてみたら、続・日月神示→「赤玉・白玉」というのがありました。


以前に読んだことがありましたが、気がつかないことがたくさんありました。


龍の事も、自分の肉体の中に、神が宿っていることも、言霊、数霊の
ことも、そして、空海のことも、書かれているのですから、驚きです。

 
例えば、「意(イ)、真中、が乗ってそこにたどり着けば良い。これが意乗り。」と、祈り=意乗りですから、言葉遊びのようにも思えるのですが、新しい発見です。

 
真中(まなか)とは三種の神器で言うところの勾玉に当たり、
他の言葉で言えば「中心の光」とか「聖なる光」とか呼ばれている
ものである。

 
これにより我々一人ひとりが神の分け御魂をもらっていること
でもあり、一人ひとりが神の分け御魂をもらっていることでもあり、
一人ひとりが神であることの証でもある。一二三でいうところの
「二」の座を指す。それに対して「一」と「三」は相対の働きを
意味する。絶対と相対の違いでもある。


と、説明がされております。この真中とは、肚九九レ(ハラくくれ)という表現も頻繁に出てきて、体の真ん中のことですから、
丹田の中心のことであり、私が三種の神器のところで説明した
通りになっています。
 
 
意識を、丹田の一点に集中させる祈りが、そこに至る意乗り(祈り)
が本当の祈りであると言っているようです。


そして、私が、疑問に思っていた、宇賀神、と白龍の関係、
赤玉、白玉の色の関係、これは、松下さんの宇賀神信仰、白龍を
中心にすえた、考え方の参考にもなります。

 
岩戸の扉が、「五度の一八十閉めと伝えてある。」となっておりますので、これは、大変だな!と思う反面、5の数字と、色々関連しているので、ますますシンクロを感じ、今の自分には大切な教えの様に思えております。


龍の力じゃなあ。この百(モモ)の力によりて再び和合という姿が
現れるぞ。少しは分かりたか、もう引き返す訳にはいかまいがな、
最後の一八十どうして開ける。」

 
「0九十0九十で開いて下されよ。仕組通りに出ているのが分からんか。型通りに出ているのが分からんか。全ては仕組の内に有り、安心してついてまいれよ。神待っておるでの。神との約束、永遠に輝く宝石じゃ。宝船でもあるぞ。全ては神の中、ゆめゆめ忘れるでないぞ」


このように、龍のパワーが、岩戸の扉を開けるには、特に強調されて、必要となっているのですが、その前に、我を捨て、赤玉=愛を深めよ!とも書かれております。

 
胎蔵界のマンダラ=九つの和は慈愛そのものですから、
その中の龍は、九頭龍のパワーを暗示しているようです。

 
心は九九路じゃ。九九理(ククリ)の道じゃ。竹で表しておるぞ。
一つの大きな節目でもあるぞ。ココロしてとりて下されよ。 


神の力と愛とは、一人ひとりの内にひそんでいる、蛇が龍に変るぞ


一人一人の神はこの様にして肉体を使って現れるようになっている。
少しはよみ返ったか。神仕組は、外にあるものではなく、
全て己が内にある。己は巳(蛇)であり、力の元となっておるぞ。


この力を使うことにより、巳(み)が龍となるのであるぞ。
全ての源がここにある。蛇を封印したのはそなた達であるぞ。
これが蛇が龍となり、全てがよみ返ってくる。


 
昇龍は白、下から上へ昇る力。降龍は金、上から降りる力。
天津、国津で現しておる。昇龍と降龍、組み組みてこの地
(血・霊)で花開く、これ蝶の乱舞で現しておる。

 
結びの型示しじゃ。百千万の世界じゃ。人それぞれに
働きあるなれど、この世の働き大切なれど、他楽きが他苦しきに
終っている。働きとは、他楽きであって、己も他も楽し楽しぞ。


基が何か見てござれ、身欲・保身、蛇が潜んでいるぞ。
真釣り外しの基じゃなあ。天には昇れまい。地を這うばかり、
のたうち回るとはこのこと。地を這う者と天を飛ぶ者と出てくる。
どちらも真釣りは出来まいがな。片働きの象徴としてある。

 
天津・国津の片働きと申してある。元は一つぞ、なれど
働きは二つ。

 
否定が否定を産んだ結果ぞ。基が自己否定にある。神なくし
ておると申したでないか。

 
八方塞がりとはこの九十。抜け出れまいがな。次元が変ると分かる。
否定はない九十がな。

 
全て◎の計りの中で成り立っておる。全て◎の(渦二つ=必然の働き)の中であることが分かれば否定が無くなる。

 
昇龍(みきり周りの渦)と降龍(ひたり周りの渦)の働き、法則してある。二十○二じゃ。二十○二が分からんと九代は使いこなせん。

 
九代は働きを現しておる。働きとは現れ、現象ぞ。現象に囚われるな、とはその裏に二十○二が働いておる。

 
二十○ 二は神でも変える九十できん。変えれば神が神としての
働きを否定することになる。否定は無いと申してあろう。

 
◎はこの二十○二を使って、全てを動かす原動力としている。
自分が自分を産んでいくのと同じである。このようにして
一瞬の休みもなく、神は創造の喜びを味わい、体験し、
さらに又、創造を積み重ねて行く。喜びが喜びを産む道理分からんか。

 
苦が苦を産む道理と同じ九十。いずれも自ら創造に係わっており、
創造が創造を産んで行く。これが神神の力と愛とは、一人ひとりの内にひそんでいる、蛇が龍に変るぞ。


一人一人の神はこの様にして肉体を使って現れるようになっている。
少しはよみ返ったか。神仕組は、外にあるものではなく
全て己が内にある。己は巳(蛇)であり、力の元となっておるぞ。


この力を使うことにより、巳(み)が龍となるのであるぞ
全ての源がここにある。蛇を封印したのはそなた達であるぞ。
これが蛇が龍となり、全てがよみ返ってくる。


神が神として解き放たれる時であるぞ。神の仕組は仕組として
受け取れ。素直が一等だぞ。素直にまさる力はない。
これにより愛が生まれるぞ。力は源と申したであろう。
男は力の象徴としてある。女は愛の象徴としてある。
歌が産田としてよみ返る。