ゼロポイントフィールド M907

ゼロポイントフィールド


「あいうえお」五十音CD  NO,2の説明文です。CDの中では、この文章の中からも音声で説明しています。

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「ゼロポイントフィールドへの到達」

 
闇から光りへ

 
「あいうえお」の五十音の実践は、理想的な呼吸法である丹田呼吸との併用ですから、それだけでも意識の変容が起きます。ゼロポイントフィールドへの到達とは、心を超越した神我=「大いなる自己」を無限に感じることにもなり、その領域に至るには、さらなる取り組みが必要になります。CDの音声に同調させて、息を極限まで吐きながら、すべての記憶の想念である十(プラス)も一(マイナス)も両方共に吐き出し、心をゼロ=無にすることを意識しながら実践するのです。

 
「吐く」の文字の口ヘンの右にある「土」がありますが、これをプラス・マイナスと読むことにします。心の中にあるプラスもマイナスも、すべての記憶を吐き出す意識を持ちながら実践するのです。徹底的に吐き出す意識を持つのです。そして、吐くの、口だけが残りますが、その中味も何もない「無」=「空」=ゼロにするのです。心を「無」にすれば、心の中には、純粋なプラスしか持たない真の自己=「大いなる自己」が宿っているので、すべてに邪魔していた記憶がクリアされたので、思い通りに願い事が叶うことになります。

  
口から出る言葉は「大いなる自己」からの純粋なプラスの言葉だけですから、「吐く」の文字が→口+十で、「叶う」の文字になるのです。毎日、ワクワク、生き生きと輝き、ゼロからの無限のパワーの
働きかけで、常に奇跡が起きて人生は好転するのです。ここでプラスの記憶も浄化することになりますが、自分が思っている記憶は、純粋な神我の思考と比べれば取るに足りないものです。

 
成功の足手まといになるだけです。ですからすべてを浄化して「無」になり、純粋な自己と一体化してすべてを委ねるのです。「は」行から「わ」行までは、進化のプロセスでもあり、浄化のプロセスでもあります。進化するためには、徹底した浄化が必要なのです。

 
能望の実践も、「六根清浄」などの祈りも、徹底した心の浄化のシステムなのです。

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<一瞬の「刹那」に運命を開く扉がある!>

 
心の浄化のシステムといえば、信じられない働きをするのがミクロの
命数なのです。ミクロの命数は、この浄化の重要度を何千年も前から熟知していた、古代の叡智が、私達人類に、この心の浄化のシステムに早く気づきなさい!というメッセージを与えてくれているのです。ミクロの命数の降龍の実践だけでも、心の中のもやもやの暗雲もすっきり晴れて、透明になってきますから、優れた浄化システムなのです。

 
さて、息を極限まで吐いて、吐いて、吐き切り、もうそれ以上は吐け
ない限界の時、気が遠くなり、一瞬、気を緩めると、息が一気に入ってくるのですが、この一瞬の「刹那」に運命を開く扉があるのです。この限界点が、陰が極まって陽になるゼロの点でもあります。この息を吐いた限界に至る状態を説明している言葉が、なぜか、ミクロの命数の中にあるのです。命数とは数の単位のことです。

 
「瞬息」→「弾指」→「刹那」と、息を極限まで吐いた時の瞬間の状況をこれらの漢字の意味がぴったりなのは驚きで、本当に有り得ない偶然の一致になります。10のマイナス16乗⇒17乗⇒18乗の数の単位が、「瞬息」→「弾指」→「刹那」なのです。

 
あぁーーーーーと息を限界まで吐き切って、その先に「瞬息」があり、「弾指」があり、そして、「刹那」があるのです。まさしく息を限界まで吐き切ったあとの一瞬の刹那となるのです。記憶が貯蔵されているところはアストラル体であり、アストラル体は電子であるということですから、その大きさは、ちょうど10のマイナス16乗になります。

 
電子=「瞬息」と同じサイズになり、さらに小さな素粒子の「弾指」→「刹那」となるのです。素粒子のレベルになると時空を超越してしまいますので、ハワイの古代の叡智である、超意識の「Aumakua」の「Au」は時空を超越するという概念と一致しています。ハワイでも、20年〜30年前であれば、祈祷師かおマジナイの扱いになり、一般にも、相手にされなかったレベルだったと思いますが、量子力学やインターネットの普及のお陰で、最新の物理学の概念とみなされ、がぜん注目されてきているのです。


話は飛びましたが、これらの素粒子のレベルであれば、言霊のエネルギーや意識のエネルギーでも作用する大きさになります。これらの命数は私が、意図的に作ったものではありません。この方法こそが、森羅万象の創造の場=無限の叡智の場=ゼロポイントフィールドに導くのです!と、お膳立てをしてくれているのです。そして、その先には、六徳→虚空→清浄→阿頼耶→阿摩羅→涅槃寂静があります。10のマイナス19乗⇒20乗⇒21乗⇒22乗⇒23乗⇒24乗という極微の数で、「涅槃寂静」で終わっているのです。1000年の封印が解かれた奥義になるのです。 

 
そして、その読み方は、→六徳 (りっと く)→虚空( こくう) →清浄 (せいじょう)→ 阿頼耶(あらや)→阿摩羅(あまら)→涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)と、読みます。涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)こそが、心の奥の最深部のゼロであり、ゼロは空であり無限でも純粋でもあるのです。無限大の数が極まれば、無限小の数になり、そして、ゼロに至り、循環のわ(輪)になります。「わ」は、輪であり、和でもあるのです。この世は循環しているのです。宇宙も地球も自然も人の体の中も、すべてのエネルギーが循環して、「わ」・輪・和になっているのです。

 
五十音の「わ」行の後にも「あ」行が来るように循環しているのです。ちなみに、『幸せの和』は、循環のエネルギーそのもので、無限大も無限小も、ゼロも含んだゼロポイントフィールドの場からのエネルギーを放出しているのです。ポリネシアの言語体系と日本語とは同系統であること、日本やインド・中国に古代から伝わる精神文化には共通点があること、すべてが量子力学的な概念にもなるので、古代には高度な叡智があったのです。
 

最後に、「わ」行と「あ」行の関係ですが、精神系の「あ行」と物質系の「わ行」は、「右の手」と「左の手」、陽と陰にも喩えられています。神道では「精神界と物質界の統一自己」を目ざし、左右の手で
かしわ手を打ちます。インドでは右手を神聖な手、左手を不浄の手として使い分け、その両手を合わせることは清濁併せたことになり、人間の真実の姿があることを表すと考えられています。

 
禅宗では右手は行動の象徴、左手は抑制の象徴になり、坐禅の時必ず片手のひらの上にもう片手のひらをのせ、禅定(こころの落ち着き)を表した形で坐ります。このように、神道でも、仏教でも、左右の手で合掌しますので、自我と魂(アートマン)の一体化を目ざし、自分自身の根本主体である「吾」に至ることを願っての行為なのです。

 
合掌は、深い感謝の心、他人を思いやり敬う心、そして、祈りの心を誘導する古代の叡智なのです。ですから、時間のないときは、合掌しながら、「わ行」⇒「あ行」と唱えるだけでも、陰⇒陽、自我と魂(アートマン)の一体化の促進になることと思われます。