自己を超越すること M988

自己を超越すること



「パワーかフォースか」の12章(パワーとスポーツ)より------


・高次元の自分によって低次元の自分に打ち勝つ!


・自己のパワー以外のもっと偉大なパワーによって動かされる!


・平和と喜びに満ちた意識の高い状態に達する!


・自己を超越することと、生命の本質に自分自身を委ねる!

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このような、私のお気に入りの文章に目が止まり、考えてみると、これらの文章からも明らかに「双子」が連想されます。本当の世界に住んでいる、もう一人の高次元の自分と、その延長線上の幻の世界=三次元のこの世界に住んでいる見かけの自分の関係を考えると、まさしく、分身ですから、双子の言葉がしっくりしてきます。
 
 
高次元の自分という文章から思いあたるのは、五十音を唱えて、1年近くになりますが、複数の倍音が出て佳境に入ると、自分が半透明の体になるような感覚になってきます。

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高次元の本当の自分は、エネルギー体ですから、自分には肉体があるので、体験できませんが、まるで、宇宙遊泳をしているようなのです。 五十音の音の振動=響きが脳波をシータ波にするためなのか、非常に気持ちが良くなってきます。

 

シータ波の時に氣のエネルギーが最高潮に出てくる!と故・政木先生も言っておりますが、五十音の倍音は、まさしく、平和と喜びに満ちた意識の高い状態に達する!のです。

 
五十音は、命の息吹=氣のエネルギーを高めるために、与えられたようにも思われますので、実践する価値があります。さて、WBCは、侍ジャパンですから、侍と言えば、武士道になります。「武士道とは死ぬことと見つけたり!」という言葉がありますが。

 
イチロウが先日の試合で犠牲バントをしましたが、自分は死んでもチームのために貢献する!という自己犠牲の精神は、武士道の精神と共通するものがあります。このような、プレイが出てくるとチームが結束し、自己のパワー以外のもっと偉大なパワーによって動かされる!ようになります。

 
最高のスポーツ選手は、常に謙虚で、感謝と敬意を表現しています。と、書いているように、優勝するためには、さらなる謙虚さが必要だと思います。

 
松岡正剛氏は、千夜千冊・『葉隠』山本常朝の紹介で、武士道について、説明されています。

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これはいざというときに死んでみせるという覚悟ではなくて、その前提にあるのは、いつだって死んでいる覚悟が必要だという意味である。

 
それゆえ例の「武士道というは死ぬ事と見付たり」の文章(語りだが)は、次のように結ばれる。「毎朝毎夕、改めては死々(しにしに)、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり」。

 
これはなんと一瞬一瞬の生死を亙(わた)るということで、ベルグソンの「純粋持続」さえ思わせる。

 
しかし常朝はそういう哲学の合理などにはまったく関心がなく、ひたすらそのことが家職に従事するにあたって必然となるはずだと言ったのだった。

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このように、紹介していますが、これは、我=エゴを殺せ!と言うことなのでしょうか?

 
>常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく
>家職を仕課(しおお)すべきなり!

 
自己を超越することと、生命の本質に自分自身を委ねる!ことに類似点があり、禅の精神にも共通しています。