宇宙の根源の力 M498

宇宙の根源の力



五木寛之氏の小説・「親鸞」(しんらん)が新聞に、連載されています。その中で、「悟り」について書かれていました。

 
悟りとは、天地宇宙に永遠不変の真理を知ったということである。頭で理解したことだけでなく、全身で魂の奥底までを知恵と慈悲の光りに照らされるということだろう。と、書いてありました。

 
含蓄のある言葉です。さすがに五木寛之さんです。この時点での親鸞は、まだ30代ですが、彼は、比叡山において20年も厳しい修行を積んでも、自分には仏様に会うことも、悟りの境地にも至ることができなかった。と、悩んでいて、煩悩に悩み苦しみ、比叡山を下りることを決意し、将来の師となる法然のところに教えを授けてもらおうと来たくだりになります。

 
法然比叡山で修行して、比叡山で一番の秀才と言われていたのですが、出世コースから外れ、山を下りて民衆に念仏を普及しているのです。法然は、万巻の経典の中から一行の言葉に触れて「阿弥陀仏」と
いう仏と出会った!と、書いてあります。

 
法然は浄土宗、その弟子の親鸞浄土真宗と、中学の歴史の教科書で習ったと思いますが、彼らが活躍したのは空海の時代から300年から400年後の鎌倉時代だと思います。法然親鸞の教えは、“南無阿弥陀仏”と念仏を唱えることであり、他力本願と呼ばれています。
 
 
私は、若いころは、他力本願とは、分けもなくだた念仏を唱えて仏様にすがることだから、自力本願とは違い、何となく意気地がない宗教のように思っていました。その頃は、知識も興味もなかったので、他力や自力という言葉だけで判断していました。

 
浄土宗⇒浄土真宗と、さらに他力の度合いが増えているので、ますます人々の心が弱くなったのかな?と、独自の解釈もしていました。けれども、法然親鸞は、20年も、30年も修行して自分の心と格闘して「他力」に至ったのですから、門外漢の浅知恵とは違い、深い理由があるのです。

 
つまり、歴史上に残る聖人のアドバイスとしてはエゴや煩悩を取り去り「悟り」の境地に至るには他力しかないんだよ!ということです。私は、「悟り」というレベルはあまりにも高すぎるので、少しでも意識レベルを高めて、「悟り」の状態に近づき、心が「自由」になることが「悟り」の境地になることではないか?と、考えています。

 
自由とは「自(おの)ずから由(よ)る」という意味になり、この「自ずから」とは、本来の自己のことになります。つまり、真の自由とは、エゴや自我を切り離し、無我になり、本来の自己に気づき、本当の自分に由(よ)ることが真の自由になれる!という意味になります。
  
 
その無我になることが難しいから聖人である法然親鸞が他力にしなさい!と、言っているのです。2009年の道新の連載が、五木寛之氏の「親鸞」(しんらん)であることは、そして、何となく気になって私が読んでいることも、何かに縁があると思っています。

 
南無阿弥陀仏”の「南無」の原型は「南牟」(のうぼう)になります。「南無」も「南牟」(のうぼう)も委ねるとか帰依するとか帰命するという意味です。

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エゴや自我を切り離す方法としては、能望の実践とも同じことが言えるのです。「阿弥陀仏」と言うのは、すべてを救う如来と言われていますが、すべてのものが大日如来の化身であるとすれば、「阿弥陀仏」も「妙法蓮華経」も、虚空蔵も、『命の源流』もすべて同じになります。「帰命」するのですから、命を帰すのは皆同じなのです。

 
空海もエゴや自我を捨てて、本来の自己に目覚めるために真言を奨励したように、歴史上の聖人達は同じことを勧めているのです。松下幸之助氏が言っていた「宇宙の根源の力」も、感謝を深めることも、すべての聖人は内面を深めることを奨励しています。

 
量子力学素粒子の世界では、観察者が意識をしなければ、そこに素粒子が実在しないのです。自己の内側にすべての世界がある!という仏教の概念が最先端の科学と一致しているのです。私達は、自分の外側にある環境を、なんとか自分の思い通りにしようと外にばかり意識を向けて働きかけて悪戦苦闘をしています。

 
修正しなければならないフィルムは自己の中にあり、外のスクリーンに働きかけても現実は何も変わらないのです。先ほど、偶然にも、100万遍も200万遍もお題目を唱えられている人から感謝の電話を頂きました。自分は能望と併用しても問題はないのですが、家族の前では
唱えられないのが残念です。と話されそして、その人は、降龍の実践(スパイラルシート)で今までよりも、心がずいぶん楽になり、1年目前の自分とはまるで変わり、環境も良くなりました!と、おっしゃっておりました。

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前回の電話の時には、私から南無の説明を聞いたと言っておられましたから、これもシンクロです。降龍の命数は素粒子よりも微細な世界になり、その世界を意識することが内面を深めることになり、何よりも、最先端の科学を実践して、現実化に働きかける最高の効果を得られているのかも知れません。

 
命数の最小単位は「涅槃寂静」ですから明らかに仏教の言葉です。「南無」も「南牟」(のうぼう)も帰命する!と命がつき、命数も命がつきます。「涅槃寂静」も『命の源流』になりますからすべてがつながっています。