瞬息 M3511

瞬息



 
重力、テコの原理、回転の力、筋肉の持続力、瞬発力、力学的には色々考えられますが、臍下丹田に意識をしずめて、一点を意識することにより、次元を超越したプラスアルファーの力が出てきます。古武術にも荷物が軽くなったり、介護にも活用したり、効率的な身体の使い方、チカラの生み出し方を工夫する、すばらしい技や体系があります。

 
けれども、古武術には氣のエネルギーは関与しているとは思いますが、それを表に出してはいません。私の方法は、仏教や合気道の発想で、呼吸の仕方や意識の向け方で、氣のエネルギーが湧出するのですから、微妙に違ってきます。

 
宗教や流派には一切こだわりませんが、良いものは、受け入れます。修行中の身なので、まだまだ偉そうなことは言えませんが、野球のバットや、剣道の竹刀の一振り、一振りと、雪投げのスコップの一投げ、一投げも、精神の働きが大きく左右しますので、共通するのもがあります。野球も、剣道も相手がいることですから、雪投げと一緒にしてもらっては困る!という人もいるかも知れません。


しかし、どんなことにも、内なるパワーを活用すれば、困難なことも、克服できて、それこそ重荷も軽くなるのです。さて、2010年は「原点回帰」ですから、今までのことをふり返り、最も大切なことを皆様に原点に戻って紹介しなければなりません。灯台下暗し!で、毎日の除雪からも最も大切なものを学べることに気づくべきでした。

  
白隠禅師、弓の名人(阿波研造)、武術の達人(肥田春充)、政木和三博士など、体の中心は臍下丹田にあり!と、内なるパワーを活用し、天才、名人、達人の域まで達成した偉人を紹介してきました。内面に深い「問いかけ」をして内なる叡智につながり、天才になっているホーキンズ博士も大切な人物です。

 
ホーキンズ博士も、内なる無限のパワーを引き出しています。


白隠禅師の内観の四則


1、我此の気海丹田、腰脚足心、総に是我が本来の面目(めんぼく)


2、我此の気海丹田、腰脚足心、総に是我が本分の家郷(かきょう)


3、我此の気海丹田、腰脚足心、総に是我が唯心の浄土(じょうど)


4、我此の気海丹田、腰脚足心、総に是我が己身の弥陀(みだ)


この四則の意味は、「わが気海丹田、腰脚足心にこそ 、真の自己が宿っているのだ。同様に、この下半身こそ、なつかしい故郷であり、また阿弥陀仏である。それどころか、この気海丹田、腰脚足心そのものが心の浄土なのである」


弓の名人阿波研造の言葉
 
的と私が一体になるならば、矢は有と非有の不動の中心にある。

 
射は術ではない。的中は我が心を射抜き、仏陀に到る。


 
武術の達人(肥田春充)の言葉-------------------

 
中心力定まれば、純一無雑、大円鏡智。天地万有、ことごとく微笑
いまだ経験せざる所の、強大恐るべき力が、腰と腹の中心からほとばしり出たオオ無限の力だ。−身も心も震蕩(ふるえ、動く)する絶大の力、光明の揺らめきだ。生命の躍動だ。これこそは真に『活ける命の泉』だ。

 
無限の力と共に、無限の歓喜は私の中心から全身にみなぎった。しかも何とドッシリと落ち着いた喜びである事よ。泰山の重さである。宇宙の静けさである。そうして身も心も、聖愛と生命の霧に、包まれて
いるかの様。

 
政木和三博士は、講演の会場では常に生命エネルギー(氣)の重要性を説かれ、早く自分の「内なる神」に気づいて下さい!と、強調されていたそうです。ホーキンズ博士も含めて、天才、名人や達人が共通して言われていることは、内なるパワーに意識を向けること!となります。

 
合気道の達人であった植芝盛平の門下生でもある、藤平光一氏は、昭和時代において、この世界では、日本でも優れた合気道の達人だと思われます。中村天風氏にも師事し、氣のエネルギーについては卓越した人物で、藤平光一氏いわく、氣のエネルギーは「無限に小なるものの無限にあつまった状態!」と説明しております。

 
そして、臍下の一点に心をしずめ統一する!と、氣が湧出する!と、心身統一合気道を創設し、巨人軍の王・長島などの指導もされています。藤平光一氏は、山岡鉄州の流れをくむ気合道や植芝盛平氏、中村天風氏などの優れた点を吸収し、氣のエネルギーについての分析と応用をたくみにされています。ところで、武術の達人である肥田春充氏は、99.96%くらいの境地まで至ったと晩年に書いた本に記しております。

 
そして、聖中心を悟得せんとする気迫が伴わなければ聖中心の鉄扉は開くものではないと述べています。このように、名人や達人でも、何十年もかかって奥義に至っても、100%には至っておらず、厳しいものがあります。お釈尊様は、意識レベルが1000で、100%の悟りに達して
いたのですからすごいことです。

 
ところで、藤平光一氏の「無限に小なるものの無限にあつまった状態!」という説明は、非常な光明になります。私達が意識を深めるところは、エネルギー湧出の中心でもあり、体の中心でもある臍下丹田の一点にあります。けれども、その一点に至るのが難しいのです。

 
丹田の中心の一点の原子核の中のエネルギーを高めるとエネルギーが湧出してきますから、周りの電子にも強力なパワーを与え続けることになります。『超巨大「宇宙文明」の真相』の本に書いてある、創造主が、創造主の無限小の部分を人間に“挿入”された、無限小の部分というのは、アストラル体の電子の大きさのレベルか、それ以下だと
思われます。仏教の経典には、極微の数の単位(命数)がしっかりあります。

 
私は、2007年に、10のマイナス19乗から24乗までのミクロの命数の存在に気がついたのですが、素粒子や電子のサイズが10のマイナス16乗ですから、これよりもはるかに小さな数になります。この時に、何で何千年も前に、このような数が存在していなければならないのか? と、非常に疑問に思ったのです。

 
そして、最小の10のマイナス24乗の数の単位には「涅槃寂静」という命数が付けられていたので、驚きと同時に、漠然とですが、とてつもないパワーを感じたのです。一番小さな極限の数が、無料大数よりもはるかに大きな最大の数の次に、くるように思えたのです。つまり、数が極まれば、無限大が無限小に飲み込まれる感覚になり、無限小の数にものすごいパワーを感じたのです。

 
陰が極まれば陽になり、陽が極まれば陰になるように数も極まれば、原点に戻り円になる!と思ったのです。ですから、宇宙は巨大な円で、巨大な原子になるのです。

さて、命数の10のマイナス16乗は「瞬息」という単位になりますが、さらに小さいのが、10のマイナス17乗の「弾指」と10のマイナス18乗の「刹那」になります。息を限界まで吐き切ったあとが「瞬息」で、さらに、ほんのワズカな隙間が「弾指」、さらなる、一瞬のことを、言葉で表すと「刹那」(せつな)と、三つもあります。

 
この命数の単位を考えた人は、まるで、限界まで息を吐き切った状態を想定して「瞬息」と、命名したように思われるのは、私だけでしょうか?これらの三つの命数を、今まで注目してきたミクロの命数に
つなげると-----------------------------------------------

 
瞬息→弾指→刹那→六徳→虚空→清浄→阿頼耶→阿摩羅→涅槃寂静と、ちょうど、九つになります。さて、「息を心を込めて長く吐く」これは、釈尊の教えですが、これも、とんでもなく、高度な科学の叡智から来ています。東洋の歴史上の偉大な聖人達が、この呼吸法を実践しエネルギーと情報が波のようにゆらいでいる万物が創造される場が、素粒子であり、それが10のマイナス16乗の「電子」とも、微細な数の単位の「瞬息」とも対応しているのです。

 
ミクロの命数
は、仏教の経典に書いているのですから、お釈尊様は、これらの関係のすべてを知っていたとしか思われないのです。微細のレベルの遺伝子にも、アストラル体にも、アートマンにも働きかけることができるのですら、この命数の叡智は、やはり高度な文明の叡智としか思われません。

  
その様に考えるとミクロの命数にはものすごいパワーが秘められており、究極の奥義となるのです。


瞬息→弾指→刹那→六徳→虚空→清浄→阿頼耶→阿摩羅→涅槃寂静

 
九つのアストラル体には「ハイアー・セルフ(高次の自我)」が9分の1づつ住んでいて、それぞれは中心で統合されています。それぞれに、ハイヤー・セルフが住んでいるということは、アートマンが宿っているということです。

 
素粒子以下の命数になると、すべてに、アートマンが存在するのです。

 
瞬息→弾指→刹那→六徳→虚空 とすると、虚空は五次元になりますこれは虚空蔵の虚空です。アカシック・レコードでもあります
 
 アカシック

五次元は、すべての思いが現実化する次元になります。三次元と五次元との波動の流れを、つまり道をつけておけば、五次元で現実化が三次元でも現実化することになります。名人や達人の共通する叡智とお釈尊様の知恵を借りると、このようになります。