弁栄上人伝聞記 M7021

弁栄上人伝聞記



『弁栄上人伝聞記』という本のコピーを送って頂きました。わざわざコピーして郵送して下さり、ありがとうございました。心から感謝しております。以前に、船井さんのブログで弁栄上人(べんねいしょうにん)のことを読んだことがありましたが、すごい人だと思いました。でも、その時はあまり詳しくは追求しませんでした。

 
今回、この資料を読ませて頂き、ネットでも色々調べてみると、近代の日本にも、千年に一人の人物が存在していたことがわかりました。そして、このお坊さんの奇跡の数々は、虚空蔵菩薩の求聞持法=能望の実践が、その原動力の一つであることもわかりました。

 
弁栄上人が能望の修行もしていることに驚いて、私にも知ってもらおうと、今回この資料を送って頂いたのですが、私も大変な勇気を頂きました。能望の実践に益々拍車がかかります。これも、原点回帰ですね。 

 
このお坊さんの宗派は真言宗ではありませんが、虚空蔵菩薩の求聞持法=能望の実践に取り組むのですから、レベルの高い人物は宗教を超越しております。弁栄上人は、化学、生理学、生物学、哲学等を吸収し、仏教、儒教キリスト教の説を自由に駆使して論ぜられるため、彼の宗派の浄土宗では異端とみられ、浄土宗の僧侶たちが彼をこらしめてやろうと総本山知恩院で上人の講演会を開きました。


弁栄上人の講演にかえって感激する人々が増えた!というエピソードもあります。空海も、白隠禅師も、そして、この弁栄上人も、宗派にこだわらない!という点では共通しています。


弁栄上人の言葉に---------------------------------------


人を殺す罪は非常に重い、中でも父母を殺し出家を殺す罪が最も重いとされている、しかし、それよりも一層重い罪がある。それは如来からいただいている己が霊性を殺すことである。というのがあります。「如来からいただいている己が霊性」とは、「本来の自己」のことであり、「内なる無限のパワー」のことです。

 
白隠禅師の「本来の面目」「本分の家郷」「唯心の浄土」「己身の弥陀」でもあります。「己身の弥陀」は阿弥陀仏を無限のパワーであり「万物の創造の源」と捉えているのですから、そのものズバリです。現代人のほとんどは、「本来の自己」を生かしておりませんので、弁栄上人から言わせれば、一層重い罪を犯していることになります。

 
これは、恐ろしいほどに、痛烈な文章であり、多くの人に伝えなければなりません。弁栄上人は、無明の世界から光明の世界へ導く如来の教えを普及するために、この世に生まれてきたと言われています。仏教の神髄は、本来の自己の発見にあり、真の自分を発見して、多くの人に悟ってもらいたい!というのが釈迦の願いです。

 
さらに、釈迦が教え切れなかった部分を弁栄上人が教える!という、彼は聖人の様な人物なのです。かんたんシリーズで紹介している成功者に共通しているのは、内在の力を開花させて、豊かな実を稔らせていることです。と、前回書きました。これは、弁栄上人の使命とも一致しております。かんたんシリーズでも、一貫して内在の力を開花させることに重点をおいております。


弁栄上人による涅槃とは生死の夢から覚めて、真如の光が現れることだという。私たちは無限の光と無限の命の世界からやって来て、そこへ又帰る存在なのだ。正覚とは太陽が出て、心の夜が明け、今まで見ていた娑婆世界が消え、宇宙全体が真実に輝いて、光明に満ちた蓮華蔵世界が現れることだという。

 
その絶対なる世界が弥陀無量光如来のことだという。弁栄上人は阿弥陀仏を諸仏のなかの一仏ではなく、いわば宇宙の大生命そのものであるととらえた。

    
船井さんのブログから抜粋------------------------------


私と親しい七田眞さんから右脳が覚醒していた名人として、よく山崎弁栄上人(1859年−1920年)のことを聞かされていました。弁栄上人はぶ厚い辞典を左手で持ち、右手でページをはじいただけで、その内容のことを完全に分った人らしいのです。

 
その辞典中に書かれていることならどのような質問をしても、すらすらと正しく答えたというのです。これは七田先生から聞いたことですが、それは毎日お経を音読することによって右脳が開発できるようだ・・・という七田理論につながります。

 
ところで、最近天才的数学者と言われた岡 潔(おか きよし)さん
(奈良女子大教授だった人で、湯川秀樹さんとともに「京大の生んだ
二人の天才の一人」といわれた人)の『日本の教育への提言』(岡 潔研究所刊)を読みました。

 
その中に弁栄上人の上記の能力のことが、やはり取りあげられていました。そのため先週(2006年8月9日)の私が主催している『直感力
研究会』で弁栄上人の研究をテーマにしたのですが、結論は、「弁栄上人は我欲のまったくない神のような人だったから直感力に秀でていたのだ」ということになりました。