神様からの贈り物 その3 M3621

神様からの贈り物 その3

  
今の瞬間に生きる奥義!!阿頼耶(あらや)・阿摩羅(あまら)・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)と、どうして、心の深層構造の名前が、この微細な数の単位に使われているのか?いくら調べても満足の行く解答が得られないまま何年も過ぎてしまいました。けれども、ミクロの命数はエネルギーレベルが高いのと、当初の思い通りに、次元を超越して色々なことが可能になるので、意味不明なままでも活用してきました。

 
ヒーリングは、癒しと気づきに至ることが最終目的なのですが、次元を越えた領域に至ることを常に意識していなければ満足のできる結果にはなりません。ミクロの命数は次元を越えるために非常に役立つので、いつも活用しております。今回、ミクロの命数を時間の単位とみなすと「今の瞬間に生きる」ことが、誰にもできるツールになる!と、確信できたので急遽、連載で説明しています。

 
時間の単位と長さの単位を併用することにより、より高い効果が期待できるのです。「今の瞬間に生きる」には、昇龍の実践も大切になってきます。以前のスパイラルシートでは、降龍が主流でしたが、「今の瞬間に生きる」ことを意識すると、高い次元の領域からも私達の次元に引き寄せることが可能になるので、昇龍もポイントになります。


スパイラルシートを持っている方は、そのまま活用できますので、降龍⇒昇龍⇒降龍⇒昇龍と、実践の繰り返しで、より心の深奥に入ることができ、それぞれの望まれる願望が達成できるのです。「今の瞬間に生きる!」という意識を持って、実践してください。前回の連載の「経済的自由を確実にするために」を途中で中断してこの連載に入っていますから、並々ならぬ重要性を感じています。今の瞬間、瞬間に自分の心を開けば、必要なものは必要な瞬間に全てが与えられるのです。前回も説明しましたが、天才達は、今の瞬間に生きているから、多くの天恵が与えられているのです。

 
モーツァルトは即興の名人でシンフォニーを作曲する際、一枚の絵画のように曲の全体が一瞬のイメージのように沸いたそうです。音の時間の経過が、色のように一瞬の空間にあらわれたそうです。その与えられた一瞬を感知することができたのは、今の一瞬に自分の心を開いていたからです。天才達は、偉大な叡智につながっている今の瞬間という真実の
世界に生きていたから、偉大な業績を残しているのです。スポーツの分野においても、今の一瞬に生きている天才アスリートはたくさんいます。

  
野球の例でも、天才と呼ばれている打者は、調子の良い時は、ピッチャーが投げたボールが止まっているように見えて、ボールの縫い目が見えた!と、語り継がれている有名な話があります。どんなに速いボールでも、止まって見えるのですから、天才打者は確実に打てたのです。程度の差はありますが、歴代の天才と言われた選手達は、同じような経験をしていたと思われます。今の瞬間に生きると、時間を超越して、不可能が可能になりますから、神がかり的な奇跡が起きるのです。

  
神が光臨する!という言葉がありますが、神の領域とは、たった今のこの瞬間の領域のことで、その瞬間に生きると、まるで、万能の神と一体化するごとく超人になれるのです。ですから、スポーツの世界でも神がかり的な奇跡が起きるのです。サッカーの選手も、バスケットボールの選手も、一流になると、相手のガードしている選手がスローモーションの様に、ゆっくり動くように見える時があり、ですから自分が思うよう動くことができて、奇跡のようなシュートが決められる!と、言います。

 
サッカーのワールドカップが近づいてきましたが、全日本の代表の選手達も、肝心な時に、このような活躍をしてくれたらいいのですが、期待しましょう。野球が世界一になっているのですから、同じ人間ですから、今の瞬間に生きることができたら、ワールドサッカーでも期待できます。世界のトップ・アスリートと呼ばれている、常に真剣に取り組んでいる人達には、このような瞬間があります。特に天才と言われている人達は、今の瞬間に生きているので、神がかり的なプレーができるのです。

 
名人や達人は、弓の名人も、武術の達人も、心を深め、時間を超越して、今の瞬間に生きることができたから、奇跡の名人業や神業になったのです。「真剣白刃取り」という技があります。物理的に考えると不可能な技のようです。けれども、相手の振り下ろす刀がスローモーションのように見えたら、いくら真剣でも、素手でとれることが可能になります。剣の名人は天才でもありますから、瞬間に生きることが無意識にできて、このような物理的には不可能な技を実現していたのでしょう。

 
芸術やスポーツの分野だけではなく、あらゆる分野で今の瞬間に生きている天才達は、神がかり的な活躍をしております。それに比べて、私達凡人は、天才とは違って、今の瞬間には生きてはいません。いつも「心、ここにあらず!」の状態なのです。宇宙には、今のこの瞬間しかないのに、私達は本当の今の世界には生きていないのです。厳密に分析すると、私達が現実に経験しているのは、今のこの瞬間における真実の世界ではありません。なぜなら、過去の記憶が私達の今の現実の経験に押し入って来ているのです。

 
膨大な過去の記憶から 様々な妄念が浮かび上り、多くの人が「今ここ」に自分がいなくなっているのです私達は、常に左脳の過去の記憶やマナ識の支配下にあり、真実の世界には生きることなく、余計なものに振り回された奴隷のままで人生を送っているのです。天才と呼ばれているアスリートも、スランプの時は私達と同じ状態に陥ります。

 
過去の記憶の渦に巻き込まれ、マナ識の奴隷になり、ズルズルと悪い現実を招き入れ、成績もどんどん悪くなるのです。まさか、あの偉大な選手が?と、思われるくらい、まるで別人のようになり、どん底のスランプ状態になるのです。私達も「今ここ」に自分がいなくなっているので、天才アスリートのスランプ状態と同じようになっているのです。ですから、いかに今の瞬間に生きることが大切かがわかります。

 
余計なものを取り払って、その瞬間だけを生きる様になると、これまでのように時間に縛られる生活から離脱できるようになってきます。天才のように、誰もがかんたんに今の瞬間に生きるためのツールが、スパイラルシートです。

 
さて、阿頼耶(あらや)は、10のマイナス22乗(100垓分の1)であることを示す漢字文化圏における数の単位である。仏教用語としての阿頼耶は、阿頼耶識のことです。100垓分の1という数字は、0.000000000000000000001で、小数点以下、0が20個も並び、2000年も前に、例え300年前の江戸時代でも、想像上の概念だけの数字で、実際に使われていたとは思われません。京(けい)という数の単位は、兆の1万倍です。そして、垓(がい)は京の1万倍です。科学が発達している現代でも、生活には縁が無い単位なのに、さらに、10のマイナス22乗という超がつく微細な数字は、京(けい)や垓(がい)よりも、はるかに、深遠な数になります。

 
コンピューターも、計算機も、筆記用具も満足に無かった時代に、原子とか分子などの概念もない時代に、素粒子よりもはるかに微細なレベルの数字に着目できて、しかも、その数字の単位に、レベルの高い名前をつけているのですから、考えられないことです。さらに、どうして、この命数には末那(マナ)識が無いのか?六徳(りっとく)⇒虚空(こくう)⇒清浄(しょうじょう・せいじょう)という流れから見ても、この中に末那(マナ)識を入れれば、全体のレベルが極端に落ちてしまいます。

 
このことからも意識の向上を促す意図が感じられ、意識の変容が無ければ高次元の心の奥には到達できません!という意図も感じられるのです。次元を越えた極微の素粒子、人類共通の無意識、DNAとの関連、心の浄化、純粋な意識、慈愛や至福の境地 等々、これらのすべてがミクロの命数に含有されているのです。特に、極微の最小の三つの命数を説明するには、心の構造を説明したほうがより理解が深まります。

  
心の認識として五感の眼識・耳識・鼻識・舌識・身識(触識)に意識を加えて六識があります。その下には深層心である第七識の「末那識」(まなしき)があります。末那識とは自分のことしか考えない自我であり、エゴであり、寝てもさめても自分に執着し続ける心であり、迷いの心、煩悩の心、本能の心になります。実は、私達の感ずること、考えることの一切はこの末那識に基づいているというのですから、私達は末那識の奴隷状態にあるのです。

 
このように末那識は強烈な自己保存の欲望であり、それがすべての苦悩の源であり、この末那識に翻弄されているのです。さらにその下に自我に執着するマナ識よりいっそう深いところにある深層意識が「阿頼耶識」(あらやしき)です。「阿頼耶」とは、サンスクリット梵語)で「蔵」という意味で、地球上に生命が誕生したと言われる30億年にものぼる過去を記憶しているのは阿頼耶識であり、さらに、阿頼耶識はあらゆる行為を種子として溜めこむだけではなく、現在を生み出す源であると考えられています。

 
これは、まさしくDNAのことであり、DNAの中には、30億もの遺伝の情報が格納されていて、30億年以上の生命の情報も記憶されているのです。遺伝子情報の解読は、つい最近の現代のことですが、「阿頼耶識」の概念は、はるかに2000年も昔のことになります。ミクロの命数もそうですが、「阿頼耶識」の概念も、現代の最先端の科学がやっとたどり着いた知識なのに、仏教の哲学にはすでに存在していたのです。


阿頼耶識のレベルでは、すべての生命はつながっており、一体であるという意識になってきます。この領域があるので、遠隔ヒーリングも可能になるのです。次に、阿摩羅(あまら)は、10のマイナス23乗(1000垓分の1)であることを示す漢字文化圏における数の単位である。仏教用語としての阿摩羅は、阿摩羅識のことです。阿摩羅とはサンスクリットで「汚れのない」という意味で、阿摩羅識は「根本清浄識」と漢訳されています。生命の最も奥底には、この第九識があり、この根源の清浄な生命のはたらきを開き顕すことによって、生命を根底から変革できるとしています。


この領域へ至ることは非常に大切になるのです。第九識のエネルギーが、八識も七識も浄化してくれるのです。ミクロの命数の中には七識はありませんが、私達の七識を浄化するためにミクロの命数があるのかも知れません。